2013年5月28日火曜日

清掃ボランティア活動に参加しました。

 宇和島市内の団体や行政機関等の有志によるボランティアグループにより、毎年恒例となった宇和島伊達家菩提寺の「金剛山大隆寺」と「龍華山等覚寺」にある県及び市指定史跡の「伊達家墓所」の清掃活動が行われました。 
 
【実施日時】 平成25年5月22日 水曜日 17時45分から18時30分
【実施場所】 金剛山大隆寺(宇和島市宇和津)、龍華山等覚寺(宇和島市野川)
【参加団体】 県南予地方局、宇和島市役所、宇和島警察署、宇和島商工会議所、宇和島無名会、宇和島城城山を守る会、四国電力宇和島支店、伊予銀行宇和島支店、愛媛銀行宇和島支店、環太平洋大学短期大学部、伊達事務所ほか
【参加人数】 230名


















 

  今回も、墓所敷地の地面は大量の落ち葉や枯れ枝で覆い尽くされていましたが、大人数で協力して作業をしたので、短時間で墓所は見違えるほどきれいになりました。私自身、初めて参加しましたが、大変大勢の方が参加されており驚きました。2ヶ月ごとに行われているそうです。次回もぜひ参加したいと思います。なお当日の様子が愛媛ボランテイアネットで紹介されています。

http://nv.pref.ehime.jp/data/report/201300000014/index.html


2013年5月22日水曜日

天赦園の花菖蒲が待ち遠しいです。

 今年の大型連休も大勢の皆さんが伊達博物館を訪れていただきました。そのほとんどの方が天赦園や城山にも足を伸ばされます。

 「天赦園はどうやっていくの?城山は・・・?」と、当館の受付でお尋ねになる方が多いです。城山については「上り立ち門」を、天赦園については「歩いてすぐの・・」とお教えします。どの方も、伊達博物館、天赦園、宇和島城をセットで考えておられるようです。観光には絶好の季節です。伊達の城下町宇和島を満喫していただきたいものです。

   

そろそろ天赦園の花菖蒲が見頃になりますが、今日は午前中に天赦園を訪ねました。

   国指定 名勝 天赦園 (案内の表示から)
 当園は宇和島城の西南部に接する旧浜御殿の敷地の一部である。
 第7代宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)(号春山)退隠の居所として文久2年潜淵館を建築し翌年造園の工を起して3年の歳月を経て慶應2年(1866)に築造されたものである。
 園名は初代藩主伊達秀宗の父伊達政宗(仙台藩主)の酔余口号と題した漢詩

     馬上少年過  (馬上に少年過ぐ) 
     世平白髪多  (世は平かにして白髪多し)
     残躯天所赦  (残躯は天の赦す所)
     不楽是如何  (楽しまずして是如何んせん)        の一節による。

 庭園の地割の主体は広い池で、岬、入江、曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれ池心に一小島を配し池辺の護岸の重厚な石組には多くの和泉砂岩の海石を用い園の周囲は、マツ、クス、カシ等の常緑樹によって外部を遮蔽し園内には各種の暖温帯性樹木が多数植栽されている。特に家系並びに家紋に因んだフジとタケは種類が多く独特の風致をつくり出している。作庭の年代は比較的新しいが意匠技法に見るべきものがあり、この種回遊式庭園として優秀なものである。

                                 昭和43年5月20日  名勝指定   伊達家



鬼ヶ城山系を借景とする池泉回遊式庭園。面積は11240㎡です。


入ってしばらく行くと石碑(文学碑)が目に入ります。


     なかなかにむかしかたらぬ 栗の木の

                      ふかきこころは 君ぞしるらむ

  栗樹記  二荒芳徳

宇和島藩主伊達宗徳(むねえ)の九男に生まれ北白川宮能久親王の五女拡(ひろ)子と結婚し、二荒家を継いで伯爵となった。この石碑には、二荒伯爵の幼い心にとどまる栗の樹が故郷をはなれてもなお母の思い出と共に心の中で育ちつづけたことが切々たる想いをもってここに刻まれています。裕仁皇太子の海外巡遊に随従、イギリスで見た青少年運動に心をひかれボーイスカウトを創設し、発展に尽くした
     昭和42年4月没(82歳)          日本ボーイスカウト 日本連盟総コミッショナー




さらに進みます。

数多くのあじさいが植えてあり、表示板に句と説明がありました。  





 あちさゐの 花のふ可きに寿む月乃 

    可けも程うき みちか夜の空    秀宗

(あじさいの はなのふかきにすむつきの
       かけもほどうき みじかよのそら)


 この句は、宇和島伊達家初代藩主秀宗がアジサイに実が出来ないことを我が子の短命なことと重ね合わせて詠んだ歌として伝わっています。



小さな滝があります。

養老の滝



  春雨亭 

愛書家としても有名な春山は、余生を楽しみながらこの書屋で書道を研鑽し、数多くの貴重な書を残しました。ここで穏やかな時を過ごしながら書道を愛し、明治22年、100歳の天寿を全うしました。また、この春雨亭は釘が使用されていない構造の、貴重な建てものだということです。


藤と竹

天赦園では伊達家の先祖が藤原鎌足であるというところから藤原氏のゆかりをしのび、藤が多く植えられていますが、それと並んでたくさんの竹もあります。7代春山は、伊達家の家紋「竹ニ雀」にちなみ竹を愛し、園内には19種類の竹や笹が植えられています。金明竹・孟宗竹・黒竹・四方竹・亀甲竹・泰山竹・蓬莱竹・熊笹・オカメ笹等の竹類が園内各所に配され、見るものの目を楽しませてくれます。










花菖蒲



 天赦園の花菖蒲は、明治30年頃東京、岡山、佐賀、熊本の各旧藩邸より集められた純日本種です。9代藩主宗徳(むねえ)遺愛の花菖蒲で、6月上旬に満開になります。いろとりどりにあやなす風景はひとしおの眺めです。今日は、まだあまり咲いていませんでした。満開になるまでもう少しです。

伊達博物館では、来る6月22日(金)から、

「長寿、宗紀 ー 長寿大名100年を謳歌」

とのテーマで、7代藩主伊達宗紀(むねただ)候の業績を取り上げた、平成25年度後期展を開始します。たくさんの皆様のご来館をお待ちしております。



2013年5月17日金曜日

第2回 「出前講座」 を行いました!



 前回に引き続いて、「スーパー・サイエンス・ハイスクール」の研究指定を受けている宇和島東高校に赴いて、「地域科学史講座」(2回目)を行いました。

 宇和島地域の発展と共に歩んできた宇和島伊達家にまつわる文化財(伊達遺産)の学びを通して、宇和島の歴史や文化について理解や関心を深めることを目的としています。

 市教育委員会文化課と当館の学芸員が協力して講義を行いました。今回は、「城山を守る会」の皆さんにも協力いただいて、生徒の興味・関心を喚起するよう講座内容に工夫を凝らしました。


甲冑姿で登場していただきました。
 


博物館の役割や学芸員の仕事など、生徒諸君も熱心に聞いて
いました。キャリア教育としての成果はいかがだったでしょうか。




 〇提示資料の一例 (当時の宇和島藩の藩領について)









 当時の宇和島藩の領域は?
愛媛県の各藩の領域を色分けしたものを提示しました。
▼宇和島藩の領域(青)
現在の伊方町、八幡浜市、西予市、鬼北町と松野町の一部、旧宇和島市(下波除く)、旧津島町(北灘除く)、愛南町が含まれる。
▼吉田藩の領域(水色)
旧吉田町、旧宇和島市の下波地区、旧津島町の北灘地区、旧三間町、鬼北町と松野町の一部が含まれる。

秀宗が宇和島藩主の頃、吉田と宇和島は一つの藩としてまとまっていた。
秀宗が亡くなる少し前の1657年(明暦3年)、2人の息子に土地を分け
兄宗利には宇和島7万石を、弟宗純には吉田3万石を与えた。




〇提示資料の一例 (伊達家に伝わる「豊臣秀吉画像」について)




 国の重要文化財の指定を受けている「豊臣秀吉画像」が、伊達家に伝来した理由について分かりやすく提示しました。下のような図にまとめました。




 「豊臣秀吉画像」が伊達家に伝わっている理由は? 

秀吉が亡くなった1599年、秀吉の側近であった富田知信が遺徳を偲び描かせたとされる。知信もその年に亡くなり、息子の信高が引き継ぐ。
慶長4(1599)年2月18日(18日は秀吉の命日)付の賛文は、西笑承兌が揮毫。

 ※西笑承兌(せいしょう・じょうたい)・・1548~1607。相国寺第98世。秀吉、家康のブレーンの一人であった。

信高が1608年(慶長13)に宇和島に転封。秀吉画像も持参。信高は、この地に父の菩提を弔うため金剛山正眼院(現在の金剛山大隆寺)を建立し、この肖像画を奉納。幕末、金剛山で当時住職をしていた晦巌(まいがん)から、宇和島伊達家8代藩主宗城に献上された。
以後、現在に至るまで宇和島伊達家に伝来。



 今回は、「城山を守る会」の方のご協力で甲冑姿で登場していただいたり、刀剣を示したりするなど、興味・関心を喚起するよう講座内容について工夫を凝らしましたが、生徒諸君の反応も良かったように思います。
 あと残り2回の講座についても、さらに創意工夫を加えて臨みたいと思います。宇和島について高校生の皆さんの理解が深まり、郷土に対する愛着を持つことに繋がれば幸いです。






2013年5月9日木曜日

「伊達なまち歩き ぶらり宇和島」 (報告その2)

 「ゆっくり歩いて宇和島通」と謳っているとおり、市内6カ所の名所・旧跡を3時間以上かけてゆっくり歩きました。風薫る素晴らしい五月晴れのもと、4.5kmのウオーキングの楽しさを満喫しました。

 えんま様で有名な西江寺の前を通りました。司馬遼太郎の小説「花神」に出てくる前原巧山の墓があります。




④ 龍華山等覚寺を訪れました。宇和島伊達家初代藩主秀宗が生母を弔うために開山しました。初代秀宗(ひでむね)、2代宗利(むねとし)、3代宗贇(むねよし)、4代村年(むらとし)、6代村壽(むらなが)、8代宗城(むねなり)のお墓があります。 

ちょうど翌日がお稲荷さんのお祭りということで、幟旗がたくさん立っていました。



   歴代藩主の墓所を示す表示があります。




⑤ 木屋旅館を訪ねました。明治44(1911)年、創業。政治家では、後藤新平、犬養毅、作家では司馬遼太郎、吉村昭、五木寛之のほか国語学者金田一春彦らが宿泊しました。最近、期間を限定して営業しているそうです。



ちょうど向かいの宇和島税務署の横に、児島惟謙の生家跡があり、石碑が建っていました。





     市指定史跡 児島惟謙の生誕地

 児島惟謙は宇和島藩家老宍戸家の家臣金子惟彬の2男として、天保8年(1837)2月1日ここにあった宍戸家の長屋で生まれた。少年時から文武に励み、壮年になっては諸藩の志士と交わり国事に奔走した。維新後は司法省に奉職して明治25年まで長い司法官生活を送った。明治24年(1891)に大津市で巡査津田三蔵が当時来日中のロシア皇太子に傷害を加えたいわゆる大津事件が突発した。その当時惟謙は大審院長としていっさいの俗論を退け、政治的圧力にも屈せず司法権の独立を守り抜いた。このことは我が国の司法史上に不滅の光を放っている。
                        昭和38年2月11日 指定  宇和島市教育委員会





 ⑥ その後、丸之内和霊神社(私は「鳩の和霊様」と呼んでいました。)を経て、最後は護国神社の近く(宇和島城の上り立ち門)にある児島惟謙の銅像を訪ねました。



 大津事件で知られる児島惟謙ですが、司法の独立を維持し、三権分立の意識を広め「護法の神」と讃えられる法曹界の偉人です。








市指定 有形文化財   宇和島城上り立ち門(のぼりたちもん)

 この門は、宇和島城にあった多くの城門の一つであって搦手口(からめてぐち)から城へ登る上り口に位置している。規模は大きくないが、建築様式は薬医門(やくいもん)形式の切妻(きりづま)、本瓦葺であって、丸瓦の先端には、伊達家の紋章の一つである九曜(くよう)の紋がついている。建造年代は明らかでないが、城郭(じょうかく)全体の大修築が行われた寛文年間(1661-1672)と推定される。諸矢倉・追手門・搦手門などの失われた今日において、この門は天守閣とともに、宇和島城の大切な遺構である。                  
                         昭和38年2月11日 指定  宇和島市教育委員会

※ 薬医門(やくいもん)とは・・・本柱の後方に控柱2本を建てて、切妻屋根をかけた門。
      大規模なものは正面を3間(本柱4本)とし、控柱も4本とする。



 最後は、ゴール地点である城山公園まで登りました。「愛の葉ガールズ」の皆さんやいろいろな人のパフォーマンスがあり、大勢の参加者も盛り上がっていました。高校時代に、毎週城山往復マラソンをしていました。ここの上り立ち門から頂上の天守まで一気に駆け上がるコース。相当きつかったことを覚えています。おかげで体力がつきました。




  閉会後、久しぶりに頂上に登り、天守に入場してみました。「鶴島城」・・・美しい姿にふさわしい名前ですね。とても有意義な一日を過ごせました。次回も必ず参加したいと思います。関係者の皆さん、ありがとうございました。



  宇和島城の沿革

 戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。
 
 その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり藤堂良勝を城代とした。
 
 慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後宇和島城と改めた。それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。天守閣は国の重要文化財に、また城郭は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。
                              
                                      宇和島市教育委員会







 




2013年5月2日木曜日

「伊達なまち歩き ぶらり宇和島」 に参加しました。(報告その1)

 4月28日に実施された「伊達なまち歩き ぶらり宇和島」に参加しました。当日は好天に恵まれ、絶好のウオーキングびより。大型連休二日目とあって、400人近い参加者がありました。昨年から実施されているそうですが、宇和島のことが勉強できました。



(主催)宇和島市・ぶらり宇和島実行委員会  (運営協力)宇和島ケーブルテレビ  FMがいや
(協力)宇和島商工会議所 ・ 市民ボランテイアグループ


 きさいや広場で出発式が行われました。石橋市長のあいさつに続き、宇和島伊達家御当主によるエールを合図に、午前10時A~Hグループ8組に分かれてスタート。「ゆっくり歩いて宇和島通」を合い言葉に、市内の名所・旧跡6カ所を巡りました。

このブログでも以前お知らせしたとおり、当博物館前館長による案内で、FMがいやによるラジオ実況中継も行われました。

おなじみのモーニ君も参加していました。


① まず始めに、宇和島駅前にある大和田建樹の詩碑を訪ねました。「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・」で知られる鉄道唱歌の作詞者です。歌詞は334番まであるとか・・・
  彼は、宇和島市丸之内出身で明治の文学者として多くの業績を残しました。






 
② 幕末の蘭学者 高野長英の隠れ家跡地を訪ねました。宇和島伊達家8代藩主宗城が、医者で蘭学者の高野長英を家老別邸で密かに匿ったそうです。幕末四賢侯の一人である宗城の進取の気性が窺えます。





③ 穂積橋(ほづみばし)を訪ねました。日本初の法学者、穂積陳重が「銅像となって仰がれるよりも、橋となって多くの人にふまれたい」と言ったことにより名が付けられた橋として宇和島人にとってはおなじみです。
 「うーん。やっぱ、偉い人は言いなはることがちがわい。・・・」 改めて素直な感想を持ちました。


ガイドさんの説明も熱が入っていました。


 
 きさいやロード(アーケード商店街)では、市民ボランテイアの皆さんや商工会議所の方々による飲み物の差し入れや、太鼓演奏などで疲れを癒やすことができました。多くの皆さんの善意で、このイベントが成り立っていることを感じました。   
             
龍神太鼓の迫力ある演奏に感動しました。