2012年5月21日月曜日

伊達の黒船 その2

不思議と最近、前原巧山につて調査される方が多い。「物づくり」に焦点が当てられているからかも知れない。世界で「物づくり」では日本の右に出るものはなかった。しかし、最近では遅れを取ることが多くなっていることは否めない。それで前原巧山なのだろうか?

前原巧山の調査研究に関しては巧山が残した自叙伝(明治6年)が基になっている。この記録は子孫の方が所蔵していたが、昭和13年伊達家からのぞまれて当時御殿町にあった伊達図書館に寄託した。(兵頭賢一館長、故人)それを写し、一冊を自分に一冊を前原家に残していた。ところが昭和20年7月の宇和島空襲で同館と共にこの本は焼失。前原家に残されていた「前原一代紀噺し」がその自叙伝として残った。

この本を基に研究が進められた。その第一人者は三好昌文もと松山大学教授である。先生の努力で復刻版として「前原巧山一代噺」 付 蒸気船天保録関係資料 1,500円(伊達博物館で販売)がある。残念なことは前にも書いたが、前原家にあった蒸気船の設計図は焼失してない。ただ、想像するのみである。

巧山はほかに「木綿織機」「砲台築造」「藍玉」「雷管づくり」「パン作り」も行っている。公益財団法人宇和島伊達文化保存会には長崎で修行したときに写した、これらの克明に書かれた製図が残っている。ミシンについてはこの写した設計図を基に復元されたものが坂の上の雲ミュージアムに展示されている。

今回は古文書の中から新しい発見を取り上げる。蒸気船の記録としては明治2年に大阪まで行った蒸気船(第2宇和島丸)が長さ9間、幅1丈、船の深さ3尺5寸とある。とすれば最初の船もこれと同じくらいであろうと推測される。この船と同じ大きさの船の設計図が公益財団法人伊達文化保存会の古文書の中から見つかった。「千年丸」という船である。伊達宗城は大村益次郎や高野長英を宇和島藩に招いて西洋の軍備を行った。蒸気船もその一貫として建造させた。蒸気機関は前原巧山(当時は嘉蔵)、造船をした者は不明である。この千年丸は時代は幕末としか分かっていないが、大きさなどぴったりと明治2年の第2宇和島丸と合っている。以上の点から千年丸に蒸気機関を乗せたと推測してもおかしくはない。

千年丸船形絵図包紙


千年丸側面図

文字は船の寸法が記入されている
残念ながら設計者、年代などの記載は無い


千年丸平面図