2012年12月28日金曜日

展示替え

伊達博物館には年5回の展示替えがある。
今回は新年に向けての総入れ替え。
まずは今まで展示していたものの撤収作業。
館員7人全てが取りかかる。
展示替えには3日間要する。


2012年12月24日月曜日

皆様方に感謝!

2012年宇和島市立伊達博物館の展示最終日

明日からは2013年の展示会に向け、展示替えを行うため、今年の開館は今日が最後となる。
日本列島、寒波襲来とかで朝から雪・・・
今年は「いやし博2012」の開催で高速道路宇和島・津島延伸の記念イベントが行われた。
仙台市博物館・瑞巌寺宝物館を始め、各方面から政宗ゆかりの品々をお借りした。
博物館開館以来の一大イベントの開催となった。
記録ずくめで特別展入館者は開館以来最高、一日の入館者も最高となり、賑ぎわった。

関係者の皆様、お客様に深く感謝の意をこめ御礼申し上げます。
2013年も伊達博物館は仕掛けます。
新年の開館は1月4日(金)より、御来館お待ちしています。

 

2012年12月22日土曜日

小堀流踏水術

 輪島市立伊達博物館は名の如く「宇和島藩伊達家」に伝わる古文書、品物を中心に展示している。展示品は、公益財団法人宇和島伊達文化保存会所有のもの、お預かりしているもの(寄託)、宇和島市へ寄贈を受けたもの、もともと市が所有していたものに分けることができる。

 この軸や文書に関しては、宇和島藩伊達家に仕えていた浅野家の御子孫の方に寄贈していただいた貴重な品物である。浅野家はもともと仙台藩伊達家に仕え、秀宗入府後、寛永年間に政宗の命により宇和島入りしている医者の家系である。江戸中期に医者の道から武士になった家系もあった。この子孫の浅野登という士が主君(宗城)の命令で熊本藩細川家に伝わる「小堀流踏水術」を学ぶため留学を命ぜられた。以下、軸と免許状である。この展示は1月4日より、伊達博物館第四展示室にて行う。

 小堀流踏水術(こぼりりゅうとうすいじゅつ)は、強力な立ち泳ぎを特徴とする日本泳法の流派。江戸時代、享保年間、熊本藩士小堀長順の創始するところで、長順の死後、池部彌八郎、山東彦右衛門、能勢熊之丞その他を経て小堀水翁が継ぎ、さらにこれを猿木宗那に伝え、宗那の死後、小堀平七がその直流を伝えた。 現在 熊本、学習院、京都、長崎に活動拠点がある。

免許状 安政6年(1860年)


游泳術(上)


游泳術(中)


游泳術(下)


修行理由由来


游術系図



2012年12月15日土曜日

展示会名の変更

武器・武具展
 
平成24年12月26日~28日展示替えのため休館
 
今までは前期展・後期展とか常設展と表示していた。
平成25年より、この名前を変えることとした。
理由の一つは「わかりやすい」展示名、
もう一つは「新しいもの」という理由からだ。
当市の方々から良く示唆を受ける。
その中で「何時行っても同じ物しか飾っていない」という意見がありますよとのこと。
年5回は替えているのだが、なかなか浸透しない理由はこのあたりだと考え、実施することとした。
 
パンフレット表面
 
パンフレット裏面
 


2012年12月12日水曜日

青山の琵琶

 青山の琵琶に関して質問があった。宇和島藩伊達家と京都の寺の繋がりで何か展示品があるように聞いたがとのこと。それなら「青山の琵琶」だと改めてまとめてみた。

 嘉祥3年(851)に、 藤原貞敏が唐から持ち帰った琵琶(青山・玄上・獅子丸)3面の内の一つである。この琵琶は謎が多く、他にも現存していると聞いている。宇和島藩伊達家に伝わる「青山の琵琶」は仁和寺の記録にもあり、信憑性は高いと思う。

仁和寺
 仁和寺には、「青山」という琵琶の名器にまつわる哀切なエピソードが伝わっている。
この琵琶は平安時代に唐から伝来し、琵琶の名手、平経正(たいらのつねまさ)が愛用したと伝えられる。
 『平家物語』巻7によれば、1183年(寿永2)の平家都落ちに際して、平経盛の嫡子の経正は、仁和寺の第6世守覚法親王に謁して、「青山」の琵琶をお返ししたいと言上した。昔、少年の経正が第5世覚性法親王に仕えていたとき、拝領した琵琶である。
その潔さに、法親王をはじめ並みいる面々はみな涙して名残を惜しんだ。なかでもかって経正の師だった行慶法印は、桂川の岸まで見送り、互いに別れの歌を詠みかわした。その翌年の一ノ谷の合戦で、経正は戦死した。
 その後、「青山」の琵琶は持ち主を転々として宇和島伊達家に伝えられたという。

公益財団法人宇和島伊達文化保存会所蔵「青山の琵琶」の図録解説

 縦長100.0×横38.0
 本資料箱書(表)には、「胡琴」とある。胡琴(こきん)とは、琵琶の古称(故国から渡来したことに由来する)である。
 平家物語の上巻・巻第七・十六「経正の都落のこと」に「青山」にまつわる話が出てくる。物語中、平経正(生年不詳~1184、平経盛の長男、元服まで仁和寺の守覚法親王<しゅかく、1150~1202。後白河院の次男で高倉帝・以仁王の兄にあたる。仁和寺は歴代皇族が貫首を務めた>に仕え、名器の青山琵琶を親王より拝領、琵琶の名手として知られた)が持参した琵琶「青山」は嘉祥3年(850)に藤原貞敏が渡唐したときに入手し、持ち帰って、後代々御所の重宝とされたといわれている。中国から渡来した3面の琵琶のうちの1面とされ、盤面に夏山の緑の峰より有明の月が出る所が描かれているところから、「青山」と名付けられたと伝えられている。
 本資料の箱書きによると、陽徳院(1568~1653、政宗の正室、奥州三春城主田村清顕の娘、愛媛)が天正7年(1579)伊達家に輿入れの際に持参し、仙台伊達家に伝わっていたとされる。その後焼失していたものを宇和島藩第5代村候が見つけ出し、入手したと書かれている。また村候直筆の箱書きの終わりには、「笑話」としてしめている。現在は盤面にすれが多く、かすかに木立に山(または夏山の緑の峰か)が描かれているのが窺え、ひとつの景色をなしている。 仁和寺には、「青山」という琵琶の名器にまつわる哀切なエピソードが伝わっている。
この琵琶は平安時代に唐から伝来し、琵琶の名手、平経正(たいらのつねまさ)が愛用したと伝えられる。
 『平家物語』巻7によれば、1183年(寿永2)の平家都落ちに際して、平経盛の嫡子の経正は、仁和寺の第6世守覚法親王に謁して、「青山」の琵琶をお返ししたいと言上した。昔、少年の経正が第5世覚性法親王に仕えていたとき、拝領した琵琶である。
その潔さに、法親王をはじめ並みいる面々はみな涙して名残を惜しんだ・なかでもかって経正の師 だった行慶法印は、桂川の岸まで見送り、互いに別れの歌を詠みかわした。その翌年の一ノ谷の合戦で、経正は戦死した。
 その後、「青山」の琵琶は持ち主を転々として宇和島伊達家に伝えられたという。



2012年12月3日月曜日

いやし博2012クロージング

いやし博2012クロージング
 
愛媛県のいやし博の閉式は11月4日で愛南町の文化会館で行われた。
宇和島市は県のコアイベントの他に自主企画イベントが数多く開催された。
そこで12月2日(日)中山池イルミネーション点灯式に併せ、閉会式が行われた。
 

司会の商工観光課職員
 

石橋市長の挨拶
 
雨に始まり、雨に終わったいやし博2012について
 

乾杯
 
ノンアルコールのバイキング形式の慰労会を兼ねていた。
乾杯の音頭は商店街連盟会長さん。
 
会場にはイベント担当者ほか、百名程の参加者だった。
これで本当の終了となった。
さあ、来年度の特別展に向け準備を急がねば!