2011年2月13日日曜日

樺崎砲台跡

幕府から沿岸防備の命令により宇和島藩もそれに従っている。その大砲の製造に関わる反射炉の建設も盛んであった。この遺構は各地に残っている。韮山、萩、佐賀、水戸、薩摩など。宇和島藩も鋳造するための施設を作っている。その場所は宇和津彦神社の下あたり。余談ながら、火縄銃や前原巧山の蒸気船の蒸気機関もここで作られている。

先日、ある方より樺崎砲台の石碑の文字について問い合わせがあった。碑の文字が消えかけているが、記録があるのかというもの。早速、整備されている砲台跡に出向いたが、文字を読むことができなかった。その後の調査で碑文が本になっていることを知った。現在、貸していただけるようお願いしているところである。時期を見て掲載したい。次の樺崎砲台に関する説明は「旧宇和島の自然と文化」よりのもの。写真と併せて見ていただきたい。

市指定史跡 樺崎砲台跡                                 所在 住吉町
 安政2年(1855)3月から12月にわたり、10か月かけて宇和島湾の守りとして築造された砲台の跡である。
 黒船とよばれた外国艦船が、日本近海にも出没しはじめて、鎖国政策を久しく続けてきた幕府は、沿岸諸藩にその防備を固めるよう命ずるにいたり、宇和島藩では、すでに嘉永3年(1850)高野長英の設計で、御荘久良に砲台が完成、のち宇和島湾にも設けようとしていたが安政元年(1854)の大地震のため民力の疲弊を慮り、その計画をいったん中止していた。
 ところが、二宮長兵衛在明という篤士家の出資申し出があり、藩もついに樺崎砲台築造に着手し、宇都宮九大夫綱敏、松田源五左衛門常愛を奉行としてはじめた。
 玉か月の山や遊子の海岸から石や土砂を運び、山をきり海を埋めて構築し、5門の砲がすえられていた。のち慶応2年(1866)宇和島に来航したイギリス軍艦に対して礼砲を撃ったことが、アーネスト・サトウの記録に見られ、実戦には役立つものではないらしいとも記されているが、宇和島藩が西洋造築法を導入して成ったものの一つとして意義が深い。
 砲台跡傍らに竣工を記念し、その経過を記して、安政3年(1856)に建てられた碑石が今も残っている。碑文は藩学明倫館教授金子孝太郎の撰になるものである。
 その後、元治元年(1864)湾の向かい側の戎山にも砲台が築かれた。