2011年3月24日木曜日

高野長英

宇和島市新町にある史跡である。このたび、敷地跡を宇和島市が購入し、公園を造っている。その碑文が住宅が撤去されることによって現れている。この石碑は公園内に移設される。高野長英が住んでいたときの住居は残っていない。吹き荒れる「尊皇攘夷」の時代に生きた長英、何を考え、何を成そうと思ったのか。作家吉村昭氏は「長英逃亡」執筆のため、宇和島のこの地を始め、たびたび訪問している。

                       高野長英の居住地跡



現在の石碑(移動対象)


石碑裏面

伊藤瑞渓(藤か東か?)


高野長英の居住の地(宇和島の自然と文化より)
                                         愛媛県宇和島市新町
高野長英(号は瑞皐は、陸奥水沢生まれの洋学者。若年から苦学を重ね、ついにシーボルト門下の逸材として有名になり、江戸で蘭医を開業、名医の名が高かったが、西洋事情の研究と普及に努めたのを幕府の役人に睨まれて、無実の罪をデッチ上げられ終身刑の判決。牢獄生活6年ののち牢舎の火災で囚人一同仮釈放となったのを機会に獄に帰らず、脱獄囚としての逃亡生活を送ること3年におよんだ。
宇和島藩主伊達宗城は、その彼の英才を惜しんでひそかに保護の手を差し伸べたのである。
長英は出羽の蘭学者、伊東瑞渓という変名で、嘉永元年(1848)4月、宇和島に入り、家老桜田佐渡の別邸に居住することになった。彼はここで藩士中より選抜せられた数名の青年たちに蘭学の教授をし、また午後は藩のために蘭書の翻訳に努めた。藩命により御荘の地に赴いて、久良砲台の設計築造に従事したこともあった。
彼が五岳堂と名付けたここの学塾には、彼の筆による学則が作られた。それによると「学問の道は水の雫が石を穿つようにせよ。西洋の書物たるや、文字は蟹の横ばいのようであり、音はモズのさえずりのようで、語脈の連なりは前後錯綜して規律がないようだが、よく研究してみると文法、語法は厳格であり、理路整然として月日の運行の如くであることが解る。朝に夕にこれを習い誦したならば、解明できないということはない。学徒はただ勉めに勉めよ。途中で解らないといって自暴自棄になってはならない。」と第一則に説き、以下学科の分類や教授中・翻訳の時間、休日中・面会日などを定めている。
しかし彼の宇和島在住も永くはつづかず、幕府に探知せられたらしいと情報が入って、嘉永2年1月ごろ、この地を立ち去った。再び逃亡生活を続けたのち江戸に潜入、幕府の捕手に囲まれて悲壮な最期を遂げたのは、翌嘉永3年10月末のことである。
受難の先覚者と南国の青年藩士が、未知の西欧学問の解明に励んだ学塾の跡には、長英の同郷の後輩、医者からさらに政治家となった後藤新平の筆になる碑が建てられている。

碑文
長英獄ヲ出テ江戸ニ潜匿ス藩主伊達宗城其偉材ヲ惜ミ嘉永元年四月密ニ藩地入ラシム
長英伊藤瑞皐(ずいほう)ト変称コト約一年此地命ヲ受ケテ蘭□□□□□□教授ヲナシシ処ナリ
大正一四年十一月後藤子爵此処ニ来リ史実ヲ明カニシテ追穰禁ズル能ハス「子爵ハ長英ト親族」筆ヲ執リテ此題字ヲ書ス

                                      兵頭賢一撰文
                                      昭和十二年一月
                                             久都直太郎建立


※ 高野長英の変名 伊藤瑞皐とあるが瑞皐は号で、伊東瑞渓と名乗っていたことが判明。

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